中学から高校にかけてのわたしは、思えば、非常に悪い子でした。中学校は足立区のとっても評判の悪かった足立区立第〇中学校で、そのなかでも多分わたしは、悪い子だったと思います。1年生の頃、授業中でも3時間目あたりになると、無性におなかが空いてきて、よく、エスケープして、近所のおでん屋で買い食いをしました。これを一ヶ月ほど続けたある日、生活指導の先生におでん屋で待ち伏せをされました。わたしは、見つかった事よりも没収されたおでんが悔しくてなりませんでした。また、わたしは、当時再放送で『コンバット』を深夜にやっていたのですが、これが見たくて、ついつい夜更かしをしてしまいました。当然、翌朝寝坊しますのでわたしは遅刻をしても校門を通らなくていいように中学校の塀を蹴飛ばして穴を空けておりました。一週間ぐらいたつと用務員さんに塞がれてしまうのでまた新しい穴を夜の内に開けておきます。こうしてわたしが空けた穴は、40個所を超えま
した。中学校の塀の殆どが、モルタルの立派な塀から、ベニヤ張りのみすぼらしい塀になった頃、夜中に友人と3人で冬に氷の張ったプールで遊んでおりますと、氷の上で一人が転んでその拍子に氷がわれ、別の友人がプールに落っこちてしまいました。また、彼が、静かに落ちれば良かったのですが大騒ぎしたため宿直の先生に見つかり、壁の件までばれてしまい大変怒られました。夏になると、教室は鬼のように暑くなり、だれもが、窓際の席を希望いたしました。わたしは、体格と腕力に恵まれていましたので、いつも窓際でしたが、ある日、窓ガラスというのは片側ずつしか空かない事に気がつきました。暑さで参っていたわたしは、とりあえず素手で近くの窓ガラスを10枚ほど叩き割ったのですが、これをまねするクラスメートがあらわれ、我も我もと、みんなで割ってしまったので廊下側も含めて教室の硝子40数枚はすべて跡形もなくなりました。たいへん風通しは良くなったのですが、え
らい勢いで怒られましたので、かえって暑くなりました。その後罰として、当分硝子を入れてもらえず、雨の日にはちょっとだけ困りました。秋には、文化祭の後夜祭で教室でアルコールランプを何本か使い技術室から黙って借りてきた、鉄板を使ってやきそばを焼いていたのですが、あまりの鉄板の重さに耐え切れなくなったスタンドが折れてアルコールランプをひっくり返し、机の上にこぼれたアルコールに引火して天井まで焦げました。(この時に始めてアルコールの火は見えにくいという事に気がつきました。)わたしたちは、職員室で散々怒られましたが、食べられなくなった焼きそばの方が残念だったです。その後も他校とのけんかや騒ぎをよく起こしていたわたしは、学年主任の先生が書いた『非行』という本に『少年H君の記録』という題名で載ってしまいました。しかも『こんな生徒は始めてだ!!』というサブタイトル付きでした
。のちに、この本が当時のPTAとか、学校関係の人の間で結構なベストセラーとなり、その頃、全然違う中学校にいた、わたしの家内も、この本の感想文を書くに至りました。題名はたしか、『こんな人がいるなんて信じられない。』だったと思います。 |