譬 喩 品 第 三
 その時舎利弗は躍り上って喜び、起って合掌し、世尊の顔を仰ぎ見てこう言った。
ー 「今、世尊より、この言葉を聞いて、心は躍り上り、未曽有の思いを懐いております。それは何故かというと、私は昔、仏からこの様な教えを聞き、諸々の菩薩が予言されて仏になるのを見たけれども、我らはその事にあずからなかったので、自分達が如来の無量の知見を失ってしまった事を感じて甚だしく悲しんでおりました。世尊よ、私は常に独り山林に行き、樹下に坐って、常にこう思っておりました。
ー 『我らも同じ様に教えの境界に入っているのに、どうして如来は小さな立場の教えによって救おうとされるのであるか』と。
 しかし、これは我らの答であって世尊の咎ではありません。それは何故かというと、もし我々が、この上なく正しい悟りを完成する困となる教えを説かれるのを待っていたならば、必ず大いなる立場によって、悟る事ができたでありましょう。しかるに、我々は、相手に応じて方便して説かれたという事に気がつかず、初めに説かれた仏の教えを聞いてたちまち信受して、それを考え、それを悟ったからであります。世尊よ、私はこのことで昔から夜も昼も、常に自分を責めて来ました。しかるに今、仏からこれまで聞いたこともない様な教えを聞き、諸々の疑惑を断ちつくし、身も心も安らかとなり、快く穏やかになりました。今日、私は真に仏の子となりました。仏の口から生まれ、教えから生まれ出て、仏の教えの分け前にあずかったのだと知りました。」
 その時舎利弗は、重ねてこの意味を明らかにしようとして、これらの詩を説いた。ー
ー 私はこの教えを聞いで、未曽有の思いを得て、心に大歓喜を懐き、疑いは皆既になくなった。昔からずっと仏の教えを受けて、大いなる立場を失わず、ー
ー 仏の音声は甚だ希有であって、よく生ける者達の悩みを通り除かれる。私は既に汚れがなくなった身であるけれども、聞いてさらにまた、憂いがなくなった。ー
ー 私は山や谷に居り、或いは林の樹の下にあって、或いは坐り、或いは歩き回って常にこの事を思い、ー
ー 欺いて深く自分を責めたー「どうして自分で自分を欺いたりしたのか」と。我らもまた仏の子であり、同じく汚れなき教えに入っているけれども未来において無上道を説く事が出来ない。ー
ー 皮膚の金色と、三十二の特徴と、十力と、諸々の解脱とは、同じく共に縁起の教えの中にあるのに、これを得ていない。ー
ー 八十種の優れた特徴と、十八種の仏独得の特徴、これらの功徳はすべて消え失せた。ー
ー 私が独り歩きまわっているときに、仏が大衆の中にあって名声が十万に満ち広く生ける者達を幸せにしていられるのを見て、自らこう思った
ー「この利を失ったのは自分で自分を欺いたからである」と。ー
ー 私は常に、日夜にこの事を考え、それを世尊に訊ねようとする。
ー「失ったのか、失ってはいないのか」と。ー
ー 私が常に世尊を見ていると、世尊は諸々の菩薩を称讃されている。それによって日夜にこの様な事を思いめぐらしたのである。ー
ー 今、仏の音声を聞くのに、相手に応じて教えを説かれている。汚れなき智慧は思義する事が難しく、人々をして道場に至らしめる。ー
ー 私は、もと、邪見に執着して諸々の婆羅門の師となった。世尊は私の心を知って、邪見を抜き、永遠の平安を説かれた。ー
ー 私は邪見を悉くとり除き、空の教えにおいて悟る事ができた。その時自分の心では、悟る事ができたと思っていた。しかるに今、私はそれは真実の悟りではないと、悟った。ー
ー もし仏になる事ができたときは、三十二の特徴を備え、天人や、人間や、ヤクシャや、竜神らは供養するであろう。この時、迷いを悉く滅ぼしつくして余すところがない、と思うべきである。ー
ー 仏は大衆の中において、「仏になるであろう」と説かれた。この様な言葉を聞いて、疑いは既に悉く除かれた。ー
ー 初め仏の説かれる事を聞いたとき、心の中で大いに驚き疑った「悪魔が仏の姿をして私の心を悩乱するのではないか」と。ー
ー 仏は種々の因縁と喩えによって巧みに説かれ、その心の安らかなこと海の様であり、私は聞いて疑いがなくなった。ー
ー 仏は、「既にこの世を去った過去世の無量の仏達は、方便の中に安住して、また皆、この教えを説かれた。ー
ー 現在及び未来の、その数を量る事が出来ないほどの仏達もまた、諸々の方便によってこの様な教えを説かれる」と説かれた。ー
ー 今の世尊も、生まれたときから、出家して、道を得て教えの輪を転ずるまで、また方便して説かれる。ー
ー 世尊は真実の道を説かれるが悪魔には、この事はない。それ故私は、たしかにこれは悪魔が仏になったのではないと知った。私は疑惑に落ちこんで、これは悪魔の仕業であると思いこんでいたのである。ー
ー 仏の柔軟な音声を聞くのに、深遠であって甚だ微妙である。清らかな教えを説かれるので、私の心は大いに歓喜し、疑いは既に悉くなくなり、真実智の中に安住した。ー
ー 私はたしかに未来に仏となって、天人や人間に敬われ、無上の教えの輪を転じて、諸々の菩薩を教化するであろう。その時、仏は舎利弗に告げられた。ー
「私は今、天人・人間・沙門・婆羅門らの大衆の中で説こう。私は昔、二万億の仏のもとで、無上道の為に常に御前を教化していたのだ。御前はまた長い間、私に従って学んでいた。私は方便をもって御前を導き入れ、御前は私の教えの中に生まれて来た。舎利弗よ、私は昔、御前を仏道を願い求める様にさせたのに、御前は今、それをみんな忘れて、自分で悟りをひらいたと思っている。私は今、御前に、御前が前世で願いを立てて実行していた事を憶い出させようと思って、諸々の声聞の為に、妙法蓮華経・菩薩を教える法・仏に護念せられるものと名づける大乗の経典を説いたのだ。
 舎利弗よ、御前は未来世において、無量無辺不可恩義劫を過ぎて、幾千万億の仏を供養し、正しい教えを保持し、菩薩の実行すべき道を備えて、仏となるであろう。その名を華光如来といい、国を離垢と名づけるであろう。その国土は平坦であり、清浄であり、きわめて美しく、安らかであり、豊かで安楽であり、天人や人間があふれているであろう。
 この華光如来もまた、三つの立場によって生ける者達を教化するであろう。舎利弗よ、かの仏の出られる時は悪世ではないけれども、昔立てた願いによって三つの立場の教えを説かれるであろう。その劫の名を大宝荘厳という。何故大宝荘厳と名づけるかというと、その国の中では、菩薩を大いなる宝とするからである。その諸々の菩薩の数は、無量無辺不可思議であって、算えることも喩えることも出来ないほどである。仏の智力以外には、よく知り得る者はないであろう。この菩薩らは歩くたびに宝石の花がその足を受けるのである。この諸々の菩薩は、初めて悟りに向かって心をおこした者ではない。皆、長い間徳の根を植えて、無量百千万億の仏のもとで清らかな修行をし、常に諸仏の称嘆する処であり、常に仏の智慧を修め、大神通力を備え、よく一切の教えを知り、実直であり、偽りがなく、意志が堅固である。この様な菩薩がその国に充満しているであろう。
 舎利弗よ、華光仏の寿命は十二小劫であろう。ただし、王子となってまだ仏になっていなかった時は除く。その国の人民の寿命は八小劫であろう。華光如来は十二小劫を過ぎて、堅満(ドゥリティ・バリプールナ)菩薩の事を予言して比丘らにこう言うであろう。
ー 『この堅満菩薩は、次の仏となるであろう。その名を華足如来というであろう。その仏国土もまたこの様であろう』と。
 舎利弗よ、この華光仏がこの世を去られてのち、正法が世に住すること三十二小劫、像法(正法に似た教え)が世に住すること、また三十二小劫であろう」と。
 その時、大衆は、舎利弗が仏の面前で、この上ない正しい悟りを得るであろうという予言を受けたのを見て、心が大いに歓喜し、躍り上ること無量であった。各々、身につけた上衣を脱いで仏に供養した。帝釈天・梵天王らは無数の天子と共に、天の妙衣・天のマーンダーラヴァ花・大マーンダーラヴァ花をもって仏に供養した。散らされた天衣は虚空を舞い、諸々の天人は百千万種の伎楽を虚空において一斉に鳴らし、諸々の天花を降らせてこう言った。
ー 『仏は昔、パーラーナシーにおいて初めて教えの輪を転ぜられたが、今また、無上・最大の教えの輪を転ぜられた」と。
 その時、諸々の天子は、重ねてこの意味を明らかにしようとしてこれらの詩を説いた。ー
ー 昔、バーラーナシーにおいて四諦の教えの輪を転じ、存在の構成要素である五うんの生滅を説き、ー
ー 今また、最妙の無上の教えの輪を転ぜられる。この教えは甚だ深遠であり奥深く、よく信じ得る者はまれである。ー
ー 我らは昔からしばしば世尊の教えを聞いて来たのであるが、未だかつてこれほど深遠で微妙な優れた教えを聞いた事がない。ー
ー 世尊がこの教えを説かれるとき、我らは皆、随喜する。大いなる智慧ある舎利弗は今、世尊から予言を受けた。ー
ー 我らもまた、その様に、必ず仏となって、一切世間においてこれ以上はないという仏になるであろう。ー
ー 仏道は思議出来ないものであるから、相手に応じて方便して説かれる。私が持っている過去世の福業、今世の福業と、仏に見えた功徳とを悉く仏道にふり向けよう。ー
 その時、舎利弗は仏にこう言った。
ー 「私には今、疑いはなく親しく仏の前で、この上ない正しい悟りを得るであろうという予言を受ける事ができました。この諸々の千二百人の心の自在な者は、昔まだ学ぶべき事が残っていた時代に仏から常に教化されてこう言われておりました。
ー 『私の教えはよく生・老・病・死を離れさせ、永遠の平安に至らせる』と。
 この、学ぶべき事がなくなった者も、まだ残っている者も、実我というものがあるという見解や、死後に我が有るとか無いとかいう見解を離れて、自分で自分の事を、永遠の平安を得たと思っておりました。ところが今、世尊から親しく、未だ聞いた事がない様な教えを聞いて、皆、疑いに堕ちこんでおります。どうか、世尊よ、願わくは四種の会衆の為にその困縁を説き、疑いから解放される様にして下さいます様に」と。
 その時仏は舎利弗に告げられた。
ー 「私は先に、『諸々の仏が種々の因縁と愉えと言葉とによって方便して教えを説かれたのは皆、この上ない正しい悟りを得させるためである』と言わなかったか。この諸々の教えは皆、菩薩を教化するためである。
 しかし舎利弗よ、今また喩えによってこの意味を明らかにしよう。諸々の智慧ある者は、喩えによって悟る事が出来るからである。
 舎利弗よ、国や村や衆落に老いた大長者がいたとしよう。富裕で財産は無量であり、田も家も下男達もたくさん持っていた。その家は広大であるのに門はただ一つであった。百人ないし五百人の人がその中に住んでいた。堂閣は朽ち古び、垣や壁は崩れ落ち、柱の板は腐り、梁や棟は傾いて危うい有様であった。その家に突然火が起って燃えはじめた。長者の子供達十人、二十人、ないし、三十人もこの家の中にいた。長者はこの大火が四方から起ったのを見て、大いに驚き怖れてこう思った。
ー 『私だけはこの焼けている家の門から安穏に出る事ができたけれども、子供らは燃えている家の中で遊び戯れる事を楽しみ執着していて、さとらず、知らず、驚かず、怖れず、火がその身に迫り、苦痛が自分に迫って来ているのに、心にいとわしいとも思わず、家から出て行こうとする気持がない』と。
 舎利弗よ、この長者はこうも思った。
ー 『私は体にも手にも力がある。花皿や机でも抱え出す様にして彼らをこの家から出す事にしようか』と。
 またさらにこうも思った。
ー 『この家にはたった一つの門しかなく、また狭小である。子供達は幼椎でまだ火事というものを知らないから遊び戯れる事に執着している。或いは火の中に転げ落ちて焼け死ぬかも知れない。私は彼らに火の怖ろしい事を説いてやろう。この家はもう焼けている。早く逃げ出して、火に焼かれない様にしなさい。』と。
 こう考えて、考えた通りにつぶさに火事の柿ろしさを諸々の子らに告げて、『御前達、早く家から出なさい』と、父は子らを憐れんで、言葉をつくして誘い諭したけれども、遊び戯れる事を楽しみ執着している子らは、言う言葉を信じ受け入れようとはせず、驚かず、畏れず、ついに家から出ようという心がなかった。火とは何であるか、家とは何であるか、何を失うのかを知らず、ただ東西に走り戯れて、父を見やっているばかりであった。
 その時長者はこう思った。
ー 『この家は既に大火に焼かれている.私とこの子らがここから出なかったら必ず焼け死ぬであろう。私は今、方便を設けて、子らをこの危難から免れさせねばならぬ』と。
 父は、この子らがそれぞれ、様々な珍しい玩具、変ったものにすぐ飛びついて喜ぶ心があった事を知っているので、こう告げた。
ー 『御前達が喜んでもてあそぶ玩具で、手に入れる事がとても難しいものがあるのだ。もしそれを今取りに行かなかったら、あとできっと後悔するだろう。それにはいろんな種類のものがある。羊の車、鹿の車、牛の車が今、門の外にあるのだ。それで遊びまわれる事が出来るだろう。御前達はこの燃えている家から早く出て行け。御前達の欲しいものはなんでも皆あげよう。』
 その時、子らは、父が珍しい玩具の事を話すのを聞き、それを欲しがって心は勇み立ち、互いに押しあい、先を争って燃える家から走り出た。
この時、長者は、子供らが安全に家から出る事ができて、皆、四辻の広場に坐って無事であったのを見て、心は落ちつき、歓喜し、躍り上った。ときに子供らは各々、父にこう言った。ー
 『父よ、先にあげるといわれた羊の車、鹿の車、牛の車の玩具を私達に下さい』と。
 舎利弗よ、その時、長者はそれぞれの子らに同じ大きな車を与えた。その車は高く大きく、様々な宝石で飾り、欄干をめぐらし、四面に鈴をかけてあった。またその上に天蓋を吊り、いろんな珍しい宝石で美しく飾ってあった。宝石の縄をめぐらして花房を垂らし、敷物を重ねて敷き、朱の枕を置き、白い牛がひいていた。その肌の色は清らかで、形は美しく、大筋力があり、歩くときは平正であり、疾い事は風の様であった。また、多くの下男達がこれを守っていた。それは何故かというと、この大長者は富裕で財貨は無量であり、種々の倉庫は悉く皆、充満していたからである。そしてこう思った。
ー 『わが財物にはきわまりがないのであるから、劣った小さな車を子供らに与えてはならぬ。今この幼い子らは皆、わが子であるから、愛するのに差別はない。私にはこの様な七宝造りの大いなる車があってその数無量である。正に平等な心で各々にこれを与えるべきであり、差別したりしてはならぬ。それは何故かというと、私のこの車を国中に給したとしてもなお乏しくはならないからである。いわんや子供らに与えるぐらい何ほどの事があろう』と。
 この時子供らは、各々、大いなる車に乗って未曽有の思いを得た。しかし、これは子供らがはじめに望んでいたものとは違っている。舎利弗よ、御前はどう思うか。この長者は子供らに平等に珍しい宝石に飾られた大いなる車を与えた。この事は嘘をついた事にならないだろうか」と。
 舎利弗は言った。
ー 「そうではありません、世尊よ、この長者はただ、子供らを火の難から免れさせ、命を全うさせようとしただけであって、嘘をついたわけではありません。それは何故かというと、命を全うしたからこそ好きな玩具も得る事ができたからであります。いわんや、方便によってかの燃える家から救い出したのではありませんか。世尊よ、例えこの長老が最小の車一つさえ与えなかったとしても、なお嘘をついた事にはなりません。それは何故かというと、この長老は先に『私は方便によって子供らを家の外に出してやろう』と思っていたからであります。この因縁によって、嘘をついた事にはならないのです。ましてや長者は自ら富裕で財貨無量であると知り、子供らを幸せにしようとして平等に大いなる車を与えたではありませんか。」
 仏は舎利弗に告げられた。
ー 「よく言った、よく言った、御前の言う通りだ。舎利弗よ、如来もまたその通りなのだ。すなわち、一切世間の父となり、諸々の怖れや、悩みや、憂いや、無明や、闇を完全になくしてしまい、悉く無量の知見と力と自信とを完成し、大神通力と智慧力を持ち、方便と徳とを完成し、大慈大悲心あって、常に倦むことなく、常に善事を追求して一切の人々の利益を念じているのである。そして朽ち古びて燃えている家の様なこの三界に生まれて来るのは、生ける者達の生・老・病・死・憂・悲・苦・悩・愚痴・闇・三毒の火の中から救い出し、教化して、この上ない正しい悟りを得させたいと思うからである。
 私が諸々の生ける者達を見るのに、生・老・病・死・憂・悲・苦・悩の為に焼かれ、また、五欲と利財の為に種々の苦しみを受けている。また貪り執着し追求する為に、現世では諸々の苦しみを受け、後の世では畜生・餓鬼の苦しみを受けている。もし天上に生まれたり、人間界に生まれたりすれば、貧窮や困苦、愛する者に別離する苦しみ、憎む者に会う苦しみなどの、諸々の苦がある。生ける者達はその中に沈んでいながら、歓喜し、遊び戯れて、覚らず、知らず、驚かず、怖れず、また厭わず、そこから解放される事を求めず、燃える家にも似たこの三界において、東西に乗りまわって、大いなる苦しみに遭うのにそれを憂患とはしないのである。
 舎利弗よ、仏はこの有様を見終ってこう思った。
ー 『私は生ける者達の父であるから、正にその苦難を抜き去り、無量無辺の仏の智慧の楽しみを与え、それによって遊び戯れる様にしてやらねばならぬ』と。
 舎利弗よ、如来はまたこう思った。
ー 『もし私が、ただ神通力と智慧力のみをもって、方便をすてて、諸々の生ける者達の為に、如来の知見と力と自信とを讃えたとしても、生ける者達はこれによって悟ることなど出来ないであろう。それは何故かというと、この諸々の生ける者達は、未だ生・老・病・死・憂・悲・苦・悩を免れる事ができず、燃える家にも似たこの三界で焼かれているからである。どうして仏の智慧を悟ることなど出来ようか』と。
 舎利弗よ、かの長者が、体や手に力があっても、しかもこれを用いることなく、ただ巧妙な方便によって努力して子供達を燃えさかる家の中から救い出し、しかるのちに、各々に珍しい宝石でできた大いなる車を与えた様に、その様に如来もまた、力や自信はあっても、しかもこれを用いることなく、ただ智慧と方便のみによって、燃える家にも似たこの三界から生ける者達を救い出そうとして、為に声聞の立場・独覚(独り悟る者)の立場・仏の立場という三つの立場を説いてこう言ったのだ。
ー 『御前達は、燃える家にも似たこの三界に住したいと願ってはならぬ。形や声や香りや味や触れられるものなどという下劣なものを貪ってはならない。もしそれらを貪り執着して愛着を生じたら、それに焼かれるであろう。御前達は早くこの三界を出て声聞の立場・独覚の立場・仏の立場という三つの立場を会得しなさい。私は今、御前達の為に責任をもって保証し空しく終らない様にしよう。御前達はただ努力精進する様にせよ』と。
 如来はこの方便によって生ける者達の心を誘い、またこう言うのだ。
ー 『御前達、正に知れ。この三つの立場という教えは皆、聖人が称嘆される処である。自在であり、繁りがなく、よりどころがない。この三つの立場に立って、汚れのない五根と五力と七覚支(悟りに趣く七つの手段)と八正道と、禅定と解脱と三昧などによって自ら楽しんで、無量の安らかさと楽しみとを得るであろう』と。
 舎利弗よ、もし生ける者達の中で、内に智性があり、仏から教えを聞いてこれを信じ受け入れ、精出して努力し、早く三界を出ようと欲して自ら永遠の平安を求める者があれば、これは声聞の立場に立つ者である。かの諸々の子らが羊の車を求めて燃える家から出て行った様なものである。
 もし生ける者達の中で、仏から教えを聞いてこれを信じ受け入れ、精出して努力し、自然の道理を観察して得る智慧を求め、独り寂かに生活する事を楽しみ、深く存在の因縁を知る者があれば、これは独りで悟る者という立場に立つ者である。かの諸々の子らが鹿の車を求めて燃える家から出て行った様なものである。
 もし生ける者達の中で、仏から教えを聞いてこれを信じ受け入れ、精出して努力し、一切智・仏智・自然智・無師智・如来の知見・力・自信などを求め、無量の生ける者達を憐れみ、安楽にさせ、天人と人間とを利益し、一切の人々を救う者があれば、これは大いなる立場に立つ者である。菩薩はこの立場を求めるから、大士というのである。かの諸々の子らが牛車を求めて燃える家から出て行った様なものである。
 舎利弗よ、かの長者が、子供らが安穏に燃える家から出る事ができ、畏れのない場所に至ったのを見て、自ら富裕であり財貨が無量である事を思って、平等に大いなる車を諸々の子らに与えた様に、その様に、如来もまた一切の生ける者達の父であるから、もし無量億千の生ける者達が仏の教えの門から三界の苦しみ・怖れに満ちた険しい道を逃れ出て、永遠の平安という楽しみを得たのを見たときに、如来はこう思うのだ。
ー 『私には無量無辺の智慧と力と自信という諸仏の教えの蔵がある。この諸々の生けるもの達は皆わが子であるから、平等に大いなる立場を与えて、自分勝手な悟りを得るのではなくて、皆、如来の悟りを悟らせる様にしよう』と。
 この三界を脱れた諸々の生ける者達には悉く、諸仏の禅定・解脱などという楽しみの玩具を与える。これは皆、ただ一つの相であり、ただ一種であって、聖者に称嘆せられ、よく浄妙第一の楽しみを生ずるものである。
 舎利弗よ、かの長者は初め三種の車で子供らを誘い、しかも、のちにはただ、宝石に飾られた安穏第一の大いなる車を与えたのであるが、それでもかの長者は嘘をついた事にはならない様に、如来もまたその様に、嘘をついた事にはならないのだ。初めに三つの立場を説いて生ける者達を導き、しかも、のちにはただ大いなる立場のみによってこれを救うのだ。それは何故かというと、如来には無量の智慧と力と自信という教えの蔵があって、よく一切の生ける者達に大いなる立場の教えを与えるのであるが、その全部を受けとる事が出来ないほどであるからだ。舎利弗よ、この因縁によって、正に知れ。諸仏は方便の力によって、一なる仏の立場において、分別して三と説かれたのである。」
 仏は重ねてこの意味を明らかにしようとしてこれらの詩を説かれた。ー
ー 例えば長者に一つの大いなる邸宅があったとしよう。その邸宅は古び破れ腐れ、堂舎は高く危うく、柱の板は砕け朽ち、ー
ー 梁や棟は傾き斜めとなり、階段はくされこわれ、垣や壁はやぶれさけ、塗り土ははげ落ち、覆った苫は乱れおち、縁や庇は食い違い脱け落ち、ー
ー めぐらした障壁は曲り、けがれたものが充満していたとしよう。この中に五百人の人が住んでいた。ー
ー 鳶、梟、熊鷹、鷲、烏、かささぎ、山鳩、家鳩、ー
ー 蜥蜴、蛇、蝮、蠍、百足、げじげじ、いもり、治虫、鼬、二十日鼠、鼠などの諸々の悪虫などが、たがいに欲しいままに走りまわり、ー
ー 糞尿のくさい処には不浄物が流れあふれ、糞虫などがその上に集まり、狐、狼、子狐が吹み、踏みあらして、ー
ー 死屍を唆み食い、骨や肉は散らばり、これに群がる犬は競ってやって来て、持ちつかみ、ー
ー 飢えつかれ、畏れて、処々に食を求め、闘い争ってひきずり、いがみ、はがみして吠える。その舎の恐怖にみち、変っている有様はこの様である。ー
ー いたる処に山の妖精、水の妖精、ヤクシャ(衣叉)、悪鬼が居り、人肉・毒虫などを食らい、諸々の悪鳥、悪獣は、ー
ー 産んで卵をかえし、乳をのませ、各々自らかくし護っているがヤクシャは競ってやって来て、争ってこれを食らう。ー
ー これを食して飽けば、悪心はいよいよ高まり、闘争する声は、甚だ怖ろしい。ー
ー クンバーンダカ(鳩槃茶)鬼は土くれの上にうずくまり、あるときは大地を離れること一尺二尺、ー
ー 往ったり返ったり遊びまわり、欲しいままにはしゃぎまわり、犬の両足をとらえて、撲って声も出ない様にし、脚で首を絞め上げて犬をおどかし、自ら楽しんでいる。ー
ー また、その家の中には、その身は長大であり裸で黒く痩せた鬼どもが住み、悲鳴をあげて食いものを求めている。ー
ー また、首は牛の頭の様な鬼どもがいて、或いは人の肉を食らい、或いは犬を食らう。頭髪は蓬の様に乱れ、残害すること凶険であり、飢えや渇きに迫られて叫喚し走りまわっている。ー
ー ヤクシャと餓鬼と、諸々の悪鳥悪獣とは、飢えに迫られて窓から四方を窺い見ている。ー
ー この様な諸々の難があって、恐ろしいこと無量である。この朽ち古びた家はある人の持物である。ー
ー その人が近くに外出してまもなく、その家に突然火が起こり、ー
ー 四面一時に火が燃えさかった。棟や、梁や、橡や、柱ははじけ、裂け、砕け折れて落ち、短も壁も崩れ倒れる。諸々の鬼どもは声をあげて大いに叫ぶ。ー
ー 熊鷹や、鷲などの諸々の鳥とクンバーンダカ鬼らは、あわて、おどろいて、出ることもできず、悪獣・毒虫は穴にかくれてのがれる。ー
ー ピシャーチャカどももまたその中におり、福徳薄いが故に火に迫られ共に相残害して血を飲み肉を食らっている。ー
ー 子狐の類はとうに死んでしまい、諸々の大悪獣は競ってやって来てそれを食らう。臭い煙はみだれおこって四面に充満し、ー
ー 百足、げじげじ、毒蛇の類は、火に焼かれて争って穴から走り出し、クンバーンダカ鬼はそれを片っ端から取っては食らっている。また、諸々の餓鬼は頭の上が火に焼け、飢えや渇きにはげしく悩み、あわてふためいて悶え走る。ー
ー その家はこの様に甚だ恐ろしい有様であり、毒害・火災などの多くの難が並び起こった。この時、家の主は門外にあって立っていたが、ー
ー ある人から、「あなたの子供らは、以前にいつも遊び戯れていたのでこの家の中に入って来て、幼くはあり、無知でもある為に、遊びに夢中になっている」と告げられた。ー
ー 長者はこれを聞き終って驚き、うまく救い出して、焼け死ぬ事がない様にと、燃える家の中に入った。ー
ー 彼は子供らに教え諭し、諸々の苦難について説いた。「悪鬼や悪虫がいる上に火は燃えひろがり、多くの苦難が連続して断える事がない。ー
ー 毒蛇や、蜥蜴や、蝮や、諸々の夜叉や、クンバーンダカ鬼や、子狐や、狐や、犬や、熊鷹や、鷲や、鳶や、梟や、治虫などは、ー
ー 飢えや渇きに悩まされること急であって甚だ恐ろしい。この苦さえどうしようもないのに、さらに大火であるのだ」と。ー
ー 子供らは無知であって、父の教えを聞いても、なおのこと楽しみ執着して遊びまわってやまない。ー
ー この時長者はこう思った。ー「子供らはこの様に私の愁いを増させるばかりだ。ー
ー 今この家には一つとして楽しみはない。しかも子供らは遊びまわる事に溺れて私の教えを開かず、火に焼き殺されようとしている」と。そこで、諸々の方便を考えて、ー
ー 子供らに告げた。ー「私には種々の珍しい玩具がある。美しい宝石で飾られた立派な車がある。羊の車、鹿の車、大きな牛の車なのだ。ー
ー それらは今、門の外にある。御前達、出ておいで。私は御前達の為にこの車を造らせたのだ。思う存分、その車で遊びまわりなさい」と。ー
ー 子供らは、この様な車があると聞いて、すぐさま先を争って外に走り出し空地に至って諸々の苦難を離れる事を得た。ー
ー 長者は、子供らが燃える家を出る事を得て、四辻に坐っているのを見て、獅子の座に坐り、自ら喜んで言った。
ー「私は今、やっと安楽になった。ー
ー この子供らは生育する事が甚だ難しく、愚かで幼く、無知であって危険な家の中に入った。多くの毒虫や山の妖精がいる畏るべき処に居た。ー
ー 大火猛焔が四面に起ったのに、この子供らは遊びまわる事に執着し楽しんでいた。しかし、私は既に彼らを救い出し、難を脱れさせる事ができた。人々よ、それで私は今、安楽なのだ」と。ー
ーその時子供らは、父が安心して坐っているのを知り、皆、父の処にやって来て、父に向かってこう言った。
ー「願わくは私達に三種の宝車を下さい。」ー
ー『子供達よ、家から出て来たなら、三種の車で思う存分遊びなさい』と前に許された事が本当なら、言われた通りに与えて下さい。今こそその時です」と。ー
ー 長者は大いに富み、蔵はいっばいである。金・銀・瑠璃・碑藻・瑪瑙などの多くの宝石によって諸々の大きな車を造った。ー
ー 美しく飾り立て、欄干をめぐらし、四面に鈴をかけ、金の縄をめぐらし、真珠の網をその上に張りめぐらし、ー
ー 金の花房が処々に垂れ下り色彩豊かな織物をまわり一面に飾り、ー
ー 軟らかな網綿を褥にし、価千億もする真白で清らかな上等の毛布でその上を覆ってあった。ー
ー よく肥えて力が強く、形も美しい大きな白牛がこの車につながれ、大勢の従者達がこれに従っていた。ー
ー この美事な車を、平等に子供らに与えたので、子供らは喜びに躍り上り、この宝車に乗って四方に遊び、遊びまわって楽しむこと自由自在であった。ー
ー 舎利弗よ、私もまた、この通りなのだ。私は多くの聖者達の一人であり、世間の父である。一切の生ける者達は皆、わが子であるが、彼らは深くこの世の楽しみに執着して、智慧の心がない。ー
ー 三界は安らかではなく、あたかも燃える家の様である。多くの苦しみが充満して、甚だ怖ろしい有様なのだ。常に生・老・病・死の苦悩があって、これらの火は止むことなく燃えさかっている。ー
ー 如来は既に燃える家のごとき三界を離れて、静かに.ひとり住み、林や野に安らかに住んでいる。今この三界は皆、私のものである。その中の生ける者達は悉くこれわが子である。ー
ー しかも、今、この処には諸々の苦しみ多く、ただ私一人だけがよく救う事が出来るというのに、彼らは、教え示しても信じ受け入れようとはしない。ー
ー そこで方便して、彼らの為に三つの立場を説き、諸々の生ける者達に三界の苦しみを知らしめ、世間から脱出する道を開示し演説するのだ。ー
ー この子供らは、もし心が定まりさえすれば、過去・現在・未来を知る三種の能力と、六種の神通力とを備えて、独りで悟る者となり、また、不退転の菩薩となるであろう。ー
ー 舎利弗よ、私は生ける者達の為に、この喩えによって一なる仏の立場を説いた。御前達にしてもし、よくこの言葉を信じ受け入れる事ができたなら、一切の者が皆、仏道を成就する事が出来るであろう。ー
ー この立場は微妙であって清浄なこと第一であり、諸々の世間において無上のものであり、他の悦ばれる処、一切の生ける者の杯讃し、供養し、礼拝すべき処のものである。ー
ー 無量百千の諸々の力、解脱、禅定、智慧をはじめ、他にも様々な仏の教えがあり、ー
ー この様な立場を得させて、子供らをして日夜に、とこしえに、常に遊び戯れる事が出来る様にする。ー
ー 諸々の菩薩と声聞達とは、この宝の乗物に乗って直ちに道場に至るのだ。ー
ー こういうわけで、十方をつぶさに探し求めても、仏の方便を除いては、これ以外の他の立場は決してない。ー
ー 舎利弗よ、御前達は、皆これわが子であり、私は父である。永い間多くの苦しみに焼かれている御前達を、私は皆、救い出して三界から出て行かせたのだ。ー
ー 私は先に、『御前達は悟っている』と説いたが、御前達はただ生死のくり返しがなくなったというだけで、真実には悟ってはいないのだ。今御前達がなすべき事は、ただ、仏の智慧を求めることだけなのだ。ー
ー もしもこの集まりの中に菩薩がいたら、よく一心に諸仏の誠の教えを聴け。諸仏は方便によって教化されるが、教化された生ける者達は皆、菩薩なのだ。ー
ー もし人々が小智であり、深く愛欲に執着しているときは、これらの人々の為に苦悩についての真理を説かれる。ー
ー 生ける者達は心喜び、未曽有の思いを得た。仏の説かれる苦悩についての真理は変ることのない真実なのだ。もし生ける者達が、苦の根本を知らず、深く苦の原因となるものに執着して、少しの間も捨てる事が出来ない様であったら、これらの人々の為に方便して道を説き、『諸々の苦の原因は貪欲を根元としている』というのだ。ー
ー もし貪欲をなくしたら、苦のよりどころはなくなるであろう。こうして諸々の苦がなくなってしまったのを、第三の真理と名づけるのだ。この苦を滅ぼす真理の為に道を修め、諸々の苦の縛めを離れるのを、解脱を得たと名づけるのだ。ー
ー この人は何において解脱を得たのであるか。彼らはただ虚妄を離れたのを解脱と名づけているにすぎず、その実は未だ、一切の解脱を得ていないのだ。仏は『この人は未だ真実の悟りを得ていない』と説かれる。ー
ー この人は未だ、無上の道を得ていないからである。私の心でも、悟りに至らしめたとは思っていない。私は教えの王であり、教えにおいて自由自在である。生ける者達を安らかならしめる為に世に現われたのだ。ー
ー 舎利弗よ、私のこの、存在の実相の教えは、世間の利益の為に説いたのだ。御前が歩きまわる地方で、妄りに宣伝したりしてはならぬ。ー
ー もし聞く者あって随喜して、これを頭に頂いて受け入れる者があったなら、この人こそ不退転の人であると知れ。ー
ー もしこの経典の教えを信じ受け入れる者あれば、この人は既に過去に仏を見て、恭敬し供養して、また、この教えを聞いていたのだ。ー
ー もし御前の説く処を信ずる人あれば、この人は、私と御前を見たのであり、また比丘衆と諸々の菩薩とを見たのである。ー
ー 私はこの法華経を深い智慧ある者にのみ説いた。智慧の浅い者はこれを聞いて、迷うて悟らないからである。一切の声聞や独りで悟る者達は、この経においては力及ばない。ー
ー 舎利弗よ、御前でさえもなお、この経においては信によって入る事ができたのだ。いわんや他の声聞達をや。他の声聞達も仏の言葉を信ずる故に、この経に随順する。自分の智慧や身分によってではないのだ。ー
ー また、舎利弗よ、高慢にして、怠惰であり、自我の実在を信じている者にこの経を説いてはならない。智慧の浅い凡夫は深く五欲に執着しているから聞いても理解する事は出来ない。それ故説いてはならぬのだ。ー
ー もし人が信ぜず、この経をそしるときは、一切世間の仏性を断ち切る事になる。或いはまた、眉をしかめて疑惑をいだく者がいる様なら、そういう人間の受ける罪報について私が説くのを御前は聴け。ー
ー 或いは仏の在世中に、或いは仏が世を去ったのちに、この様な経典をそしる者あって、この経を読誦し、書写し、たもつ者を見て、その人達を軽蔑し賎しめ、憎み、そねんで恨みをいだくなら、この人の罪の報いを、今、御前は聴け。ー
ー この人は命終ったのち、アヴィーチ(阿鼻)地獄に堕ちるであろう。一劫の間そこに居て、劫尽きればさらに生まれ、この様にくり返して無数劫に至るであろう。ー
ー 地獄から出たら畜生界に堕ちるであろう。もし、犬や子狐になれば、その体は毛が禿げ落ちて痩せ、ー
ー 色黒く、疥癬や癪疾あり、人になぶりものにされ、また、人に憎まれ、賎しまれる。ー
ー 常に飢えや渇きに苦しみ、骨は枯れ肉はやせ衰え、生ある間は苦しみを受け、死ねば瓦や石を投げつけられる。仏性を断ち切ったが為にこの罪の報いを受けるのだ。ー
ー 或いは駱駝や驢馬の中に生まれ、身に常に重い荷を負い、鞭や棒で打たれ、ただ水や草のみを乞うて、他には何も知るところがない。この経をそしったが為に、罪報を受けることこの様である。
ー 或いは子狐となって村に入るのに体には疥癬や癪疾あり、片目はなく、子供らに打たれ叩かれて、苦しめられ、あるときは死んだりもする。ー
ー こうして死ねば、さらに大蛇の身となり、その形、長大であること五百ヨージャナ、つんぼで、愚かで、足もなく、身をくねらして腹ばい、ー
ー 諸々の小虫にすすられ、食われ、昼夜に苦しめられてやむときがない。この経をそしったが為に、罪の報いを受けることこの様である。ー
ー もし人間になったときも、性質は暗愚で鈍く、小人、引っつり、いざり、めくら、つんぼ、せむしとなるであろう。ー
ー ものを言っても人は信用せず、口は常に臭く、悪鬼に通り憑かれる。ー
ー 彼らは貧乏であり下賎であって人に使われ、多くの病あってやつれ痩せ、どこにも頼りとするところがない。ー
ー 人に近づいても、人は相手にしてくれず、例え何かを得ても、すぐになくしてしまう。ー
ー もし、医道を修めて、処方に順って人の病を治しても、さらに他の病気が起って死んだりもする。もし自分が病気になっても、誰も治療してくれる者はない。例え、良い薬をのんでも、痛みはいよいよ烈しくなるばかりである。ー
ー 或いは、他の人々が反逆し、掠め脅かし、盗んだりするであろう。これらの罪の報いの憂いに続けざまにかかるのだ。ー
ー この様な罪人は、諸々の聖者達の王である仏の、教えを説かれ、教化されるのを永く見る事がない。ー
ー この様な罪人は常に難処に生まれ、狂気で、つんぼであって心乱れ、永く教えを聞く事がない。ー
ー ガンジス河の砂の数の様に無数の劫において、生まれながらにして、つんぼで、唖であり、不具者である。ー
ー 常に地獄にあること、園林・高台に遊ぶ様であり、その他の悪道にあること、自分の家にいる様である。ー
ー 駱駝、驢馬、猪、犬の身が、彼の行く処となる。この経をそしったが為に罪の報いを受けることこの様である。ー
ー もし人間となっても、つんぼ、めくら、唖であり、貧乏と困窮、諸々の衰えによっておのれを飾り、水ぶくれ、消渇、疥癬、癪疾、はれもの、これらの病を衣服とし、体は常に臭く、垢にまみれて不浄である。ー
ー 彼は深く自我の実在に執着して、憎しみは増大し、淫欲は烈しく、鳥や獣さえも相手とする。この経をそしったが為に、罪の報いを受けることこの様である。ー
ー 舎利弗よ、この経をそしる者の、その罪を説くとすれば、劫をきわめても終る事はない。ー
ー もし才能すぐれ、智慧あきらかであり、多く教えを聞いて、学識あり、しかも仏道を求める者あれば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー もし人、かつて百千億の仏を見て、諸々の善の根を植え、信仰心堅固ならば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー もし人、精進して常に慈悲の心を修め、命をも惜しまぬ様であれば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー もし人、恭敬して心に変りがなく、諸々の凡愚の人を離れて独り山や沢に住するならば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー また、舎利弗よ、もし人あって悪しき師を捨て、よき師に近づく者あれは、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー もし仏の子で、戒めを持つこと清らかに浄明な珠の様に大乗の経典を求める者あれば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー もし人、憎しみの心なく、誠実で柔軟であり、常に一切の生けるものを憐れみ、諸仏を恭敬する者あれば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー また仏の子で、大衆の中において、清らかな心で、種々の因縁や、喩えや言葉によって教えを説くこと自由自在な者あれば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー もし比丘であって一切智の為に、四方に教えを求めて合掌し、頭に頂き、ー
ー ただ大乗の経典だけを願い持ち、その他のものは一つの詩でさえ受けようとしない者あれば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー もし人、至心に仏の遺骨を求める様に、その様に経を求め、求め得てそれを頭に頂き、ー
ー その人、また、他の経典を求めたりせず、また、未だかつて異教の典籍などは心にかけぬ様であれば、かかる人の為にこの経を説け。ー
ー 舎利弗よ、こんな風にして仏道を求める者の事を説いていれば、劫をきわめても、尽きる事がないであろう。この様な人々はよく信じ理解するのであるから、かかる人々の為に、御前は、妙法華経を説け。ー